選挙に出るまでの経緯
2008年 02月 16日わずか4カ月の準備期間で、私は横浜市会議員として議会に上げてもらった。だから知名度はゼロに近いまま、選挙戦に突入したわけだが、幸運にも8344票を頂戴した。小さな偶然の積み重ねによって、私は政治の道に入ることができたわけだが、私が政治家を志した、その思いと経緯について整理しておきたい。
私が政治を意識したのは大学生になってからである。何がキッカケだったのかは分からない。大学生になり、自主的に行動する時間が増えたことで、歴史に興味を持った。なぜ歴史かと言うと、当時ぼんやりと「今の日本はこんなにも豊かなのは何故だろうか」という疑問を持っていたからだ。少なくとも食うことに困ることはなかったし、必要な勉強はさせてもらえた。この繁栄を享受できるのはなぜだろう、と。
加えて、湾岸戦争の記憶もまだ新しかった。私が小学校6年生の出来事であるが、日本は90億ドルもの戦費を負担しながら世界からは感謝されなかった。自衛隊は違憲か合憲か、国会でも喧々諤々の議論をしていた。
だからだろう。政治への問題意識から次第に歴史に興味を寄せていった。
最初に関心を持ったのが明治維新だった。支配階級が支配階級を倒し、しかも革命としては世界に類を見ないほど流血の少なかった明治維新。犬猿の仲だった薩長を取り持った坂本龍馬の人間的魅力、あるいは人民を戦火から守った江戸城無血開城の立役者、勝海舟と西郷隆盛の胆力、大所高所からの判断で自ら権力の座を降りた最後の将軍・徳川慶喜の勇気。国の行く末を、国民の幸せを考え・行動した偉人がキラ星のごとく現れた幕末期に魅せられた。こうした政治家が増えれば、今の日本も変わるのに。それが大学生の当時、私が抱いた感想だった。
あれは19の夏だったか、20の夏だったか。上野の博物館で戦争に関連する展示会が催されていた。私は生まれて初めて、特攻隊の人が故郷に残したお母さんに宛てた手紙を読んだ。断っておくが、私は戦争を肯定しているわけではない。特攻隊で戦場に命を散らした人の中にも様々な感情が渦巻いていたことと思う。
手紙には彼らの父を、母を、子を思う素直な心情が綴られていた。この心情はまぎれもなく、彼らの偽らざる内なる思いだっただろう。その手紙を目にしたとき、私は自然と目から涙が流れた。今の僕たちがあるのは、こうした犠牲があったからであることを初めて実感した瞬間だった。夢や希望もあったであろう、当時の若者が犠牲になった。政治が誤ると、こうした悲惨な状況に陥ってしまう。青臭いと言われるかもしれないが、当時の私はそう直感した。
ちょうど同じ頃だったと記憶しているが、大学の先輩に横浜支部のOB会の手伝いに誘われて、関内のホテルに出かけていった。そこには自由民主党の鈴木恒夫議員が参加していた。彼は早稲田大学から毎日新聞の記者となり、河野洋平氏に見出されて政界に転出した経緯を持つ。青臭い私は彼に色々と持論をぶった。何を話したかは覚えていないが、彼からの一言だけは今でもハッキリと覚えている。「伊藤君、そのうち、ジバン・カンバン・カバンがなくても政治家になれる時代はきっと来るよ。でもね、まずは社会に出て、社会人として誰からも一目置かれる仕事をすることだ。それができたときは、必ず君を拾い上げてくれる人が現れるよ」。
単純な私はその言葉を信じた。もちろん、そんな簡単に事が進むとは思わなかったけれども、どこか頭の中で政治家を意識した瞬間だったのだと思う。とはいえ、父親はサラリーマンで転勤族。私には地元が存在しなかった。だから政治家という道に進むには、一体何をすればいいのか皆目検討がつかなった。
時は流れ。モラトリアムを楽しみたいという思いも手伝って、工学部に在籍していた私は大学院まで進学した。そして就職の時期を迎える中、殆どの仲間は電機メーカーや通信事業者などを就職先に選んだ。私はどこかでぼんやりと「将来、政治と関わる可能性を残しておきたい」と考え、マスコミへの就職を決意した。日経BPとNHKを受験し、最初に合格通知が来た日経BPを選んだ。日経BPであれば、技術系記者として大学で学んだ知識も少しは生かせるし、高い学費を払ってくれた両親にも説明ができる、そう考えた結果でもあった。
日経BPに就職し、記者としての生活が始まったわけだが、当然、政治との接点はまったくなかった。技術系記者として知的財産や産学連携、環境技術などを主に取材していたが、政治との接点はなかった。自分が政治の道に入るのは無理かもしれないなと諦めてかけていた時期でもあった。もっとも政治の世界に入るための努力をしていないわけだから、何をかいわんである。
しかし、ここから運命の歯車が動き始める。2005年4月に私は結婚を機に横浜市青葉区に住んだ。この年の秋、あの郵政解散総選挙があった。妻とたまプラーザの駅前に買い物に行ったとき、江田けんじ氏が一生懸命街頭演説をしていた。以前から関心を寄せていた政治家だったことも手伝って、私は期日前投票で彼に一票を投じた。ただ、あの時は自民党に大きな風が吹いていたから、正直、当選するとは思っていなかった。
ところが驚いたことに、ふたを開けてみれば、江田氏が堂々の当選。記者というのは人の会うのが仕事。同じ20代のサラリーマンに比べれば、相手が誰であろうと会うためのハードルはそれほど感じていなかった。私は早速、江田けんじ氏に「会いたい」とメールを送った。
江田けんじ議員は非常にフットワークが軽く、翌日にはすぐ返事がきた。「永田町の事務所に遊びに来て下さい」。当時、私の会社は永田町の隣、平河町にオフィスを構えていたので、これ幸いと永田町の議員会館へ足を運んだ。これが江田氏との最初の出会いである。
1時間にわたって色々な話をしてくれたが、大体次の通りだった。「君はもう結婚しているし、いい給料ももらっている。この世界はなかなか大変だ。記者という仕事を通じて、政治に働きかけるのがいいのではないか」。正直、私も覚悟はできていなかったので、江田氏の言う通りだと思った。
記者生活は比較的順調だった。職場に恵まれ、優秀な先輩・後輩に囲まれ、年々記者として力がついているのを実感していた。ただ、非常にストレスの溜まる仕事だった。2006年春、仕事のストレスからアトピーが悪化した。はじめは目がかすんでいるだけだと思っていたが、眼科に診てもらうと「白内障」の
診断が下った。それも両目。これまで2.0の視力を誇った健全な眼がわずか1ヶ月の間に0.1まで下がった。
この時の衝撃、ショックは今でも忘れない。妻にどう伝えようか。両親はショックを受けないだろうか。
色々なことを考えた。仕事にも差し障りが出てしまう・・・・。
結局、2006年夏、私はまず左目にメスを入れた。この時に医者に言われた台詞が私の人生を大きく変えた。「伊藤さん、あなたは将来、緑内障を発生するリスクが人の何倍も高い。そのときは失明です。定期的に検診を受けて、細心の注意を払って下さい」。
これまで二十数年の人生の中で、健康であることは当たり前だと思っていた。その認識が誤りであったことを宣告された瞬間だった。このとき、不思議と「自分が本当にやりたいことをやっておかないと、眼が
見えなくなったときに絶対に後悔する」、こう思った。
そして、どうしても政治との接点を持ちたくてNHKの中途秋採用を受験した。筆記、1次、2次と進んだが、最終的には落とされた。面接官からは「そんなに政治と接点を持ちたいなら、あなたが選挙に出ればいいじゃないですか」とまで言われた。
まさに、そのときだった。江田けんじ議員が自身のメールマガジンで「来る2007年4月の統一地方選挙で横浜市緑区選出の独自候補を立てたい。挑戦したい人は応募されたし」との呼び掛けが目に飛び込んできた。
NHKの中途採用試験で落とされ失意のどん底にいた私は藁にもすがる思いで江田事務所に論文を送った。1年前、永田町の事務所を訪れていなかったら、この応募にもきっと気付かなかっただろう。そういう意味では非常にラッキーなことだった。
何回かの面接を経て、私は選挙に出ることになった。妻とも何回か話し合った。「選挙に受かる可能性は極めて少ない。選挙資金の400万を失うかもしれないがどうするか」。
夫婦で出した答えは「ゴー」だった。400万は失うのではない。そのお金で経験を買うのだ、と。選挙に負けた時に失うお金は、その後頑張れば、また手に入る。しかし、400万円を惜しんでチャンスを逃したとき、必ず将来後悔する。後悔するくらいなら、とりあえず、挑戦してみよう、と。これが夫婦の出した答えだった。
右も左も分からない中で選挙の準備を進めた。駅に立ち、一生懸命マイクを握り続けた。途中、何度も挫けそうになった。駅に立っていると酔っ払いに絡まれることもしばしば。夜遅くまで駅に立っていたのがたたって、冷えから腰が曲がらなくもなった。そもそも知名度がまったくないから、ビラを配っても誰も受け取ってくれない。
本当にこのままでいいのだろうか、と葛藤する日々が続いた。選挙の2ヶ月くらい前だっただろうか、選挙が目前に迫っていたからなのか、とにかく私は吹っ切れた。サラリーマンの家庭で育ち親戚縁者に政治家はいない、緑区に地縁もない、ないないづくしの中で戦うわけだが、それでも、政治の世界に入る、数少ないチャンスが目の前にある。そう思ったときに、やれるだけのことをやらないと後悔する。後悔だけは絶対にしたくないと思い、雑念を振り払って死に物狂いで活動した。
本当に周囲の人に支えられ、私は8344票の応援を得て、奇跡的な当選を果たした。回りの支えがなければ、当選はなかった。初心を絶対に忘れてはいけない。だから、私は今でも駅に立ち続けている。
政治への不信を取り除きたい。そして、市民の声を正しく届けたい。一議員としてできることは限られているかもしれないが、きっと志を同じくする仲間が増えていく。そう信じて、今日も、そしてこれからも活動していきたい。
伊藤を政治家にしておいてよかった。そう言ってもらえるよう、粉骨砕身、働いていきたい。
コメント (2)
そうですよね。日本史の近現代史なんて文系のトップレベルの大学受験でもしない限り勉強しませんものね。その点は高校教諭の先生方に勉強会等で研修してもらって改善されることを望みます。
今回の神奈川県の選択には基本的に賛成です。地理を学ぶ機会をどう確保するかが今後の課題ですが、世界史と日本史を同時平行して学ぶことで昔の日本と外国の接点がわかり、今現在の我々の日常生活にどう影響を及ぼしているのかということをよりマクロに勉強できますから。
投稿者: 関根健司 | 2008年02月19日 12:53
日時: 2008年02月19日 12:53
都筑区で、子どもたちと早渕川のクリーンアップ活動を15年続けています。また、図書館のサポーターを7年継続している中で、小学校の環境教育や生涯教育に関心を持っています。たまたま教育委員会の常任委員会メンバーでいらしゃることから、伊藤様のホームページを拝見しました。
選挙に出られるまでの経緯を、市民にこのようにきちんと説明されていらっしゃることに感心しました。市議としてのスタンスを明確に示し、「政治への不信を取り除きたい。そして、市民の声を正しく届けたい。」という言葉に期待します。地域ではいろいろな課題が山積しています。ひとつずつ取組んでいって欲しいと思います。
投稿者: 福富洋一郎 | 2008年03月09日 22:17
日時: 2008年03月09日 22:17